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氏名 小谷 学 (こたに まなぶ)

 

現在の職業

(株)ジャシボマーケティング 代表取締役社長

http://www.asiatrade.jp

一般社団法人ジャシボ 理事長

http://www.jcbo.org/

㈱TBSディグネット メディアプロデューサー

http://www.tbsdignet.co.jp/

㈱サムライメディカル 中国統括顧問

http://chat-doctor.com/

香港文匯報ジャパン 企画部長

http://www.wenweipo.com/


 

出生地 和歌山県海南市

学歴 近畿大学附属和歌山高等学校 卒業

国立東京商船大学商船学部航海学コース

上海師範大学 中国語 2年間留学

職歴 東証一部 ㈱トランス・コスモス IT企業 1999年―2000年

東証一部 ㈱中国塗料 上海支社 2001年―2002年

上海高砂倉庫貿易有限公司 現地法人代表 2002年―2003年

現職 上海泉能貿易有限公司 代表 【中国上海法人】起業独立 2004年~

香港泉能貿易有限公司 代表  【香港法人】起業独立 2004年~

■業務内容【上海・中国法人】
貿易代理店 中国建材・家具の日本向け輸出商社 上海進出サポート(会社登記代理) 代理会計サポート 中国企業の紹介 OEM生産のサポート業務 商材調達代理 上海・香港会社登記代理 中国ビジネス講師等

現職 一般社団法人 日中商務振興協会 理事長 【日本法人】 2012年設立

中京大学 情報メディア学科 非常勤講師 2009年~

上海立信会計学院 【大学】 特別講師 2009年~

北京大学 EMBA     講師 2010年

講師実績 『中国貿易・中国進出・ビジネスセミナー講師』2004年~

鳥取県青年会議所 「中国貿易セミナー」 2006年
名古屋地区青年会議所 「中国ビジネスセミナー」 2009年
名古屋異業種交流会「旬の会」「中国貿易セミナー」 2007年
西日本シティ銀行 義烏視察ビジネスセミナー 2007年
新建新聞社主催、中国建材セミナー  2007年
宮崎県ジェトロ主催「中国ビジネスセミナー」 2009年

アリババ中国貿易講座 2010年度~
上海・東京・名古屋・大阪・福岡にて「中国ビジネスセミナー」を多数開催
セミナー受講人数 3000名以上 2000社以上の方が受講しました。
・その他、上海企業研修時に講師を行なう。

 

 

 

 

『ビジネスの目的は、日中の架け橋 日本企業の中国ビジネスの成功へ導くためのサポートビジネスを行うこと。』

自己紹介

 

【幼少時代から学生時代】

 

 1973年(昭和48年)727日に、和歌山県海南市で生まれる。父 小谷正(和歌山県庁)母 小谷文子(和歌山県農協 女性会 県連会長)の間に生まれる。和歌山県海南市の山間に育つ、小学校、中学校と地元の公立学校に通う。小さいときから目立ったことが好きで、小学校時代は、学級委員長、中学校時代には、陸上部のキャプテン、生徒会長を行った。高校は、私立の進学校に通う 私立 近畿大学附属和歌山高等学校の特別進学クラスであるADクラスに合格 2000名を超える受験生の中で、上位25位での合格を果たした。高校2年生の時に、生徒会長に立候補し当選、校則の改定問題など取り組んだ。高校卒業後、上京、国立東京商船大学に進学、進学理由は、自分の祖父が、広島の江田島にあった海軍兵学校の教官であった。海への憧れがあり、航海学を学ぶことを決めた。学生時代は、アルバイトにあまりにも力を入れすぎた結果、アルバイト先では、責任者としてのポジションを得たが、学業がおろそかになり、留年、4年まで進級したが、結果、退学を決意する。

 理由は、「船に乗らないのであれば、商船大学を卒業しても意味が無い。」当時は、「これからは、中国の時代」と囁かれていた時代であった。学生課にはっていた「中国留学のポスター」を見て、留学を決める。「中国ビジネスの世界で、極めて見せる。」という決意をして、上海師範大学に留学する。2年間の留学で、中国語をほぼマスターした。

 

 【社会人になってから】

 

留学終了後、日本に帰国、東証一部のIT会社 ㈱トランス・コスモスに入社、中国要員としての採用であったが、就職して1年経過したが、いつ中国にいけるか分からず、自分で中国に行くことを決意して、退社。中国で仕事をするチャンスを狙う。しかし、すぐに、中国に行ける仕事が見つからず、派遣で、NTTコミュニケーションで働く。当時は、マイラインという電話回線の獲得競争があり、販促営業マンとして仕事をした。月間成績でTOPをとり表彰されたこともあった。しかし、この仕事は、つなぎの仕事で、自分がやり続ける仕事ではないと思い常に、中国で働けるチャンスを狙っていた。その後、上海の人材紹介会社から自宅に連絡があり、「貴方のような人材を捜している会社があります。面接に来てください。」と言われ、一か八か、20万円を握り締めて、大阪港から上海に船で渡った。上海で面接を受け、見事採用された。中国塗料という広島が本社の上場企業の上海オフィスであった。船舶塗料メーカーの販売員として、中国全土の造船所を廻り営業する。日本船舶、外国船舶に関係なく、営業をし、英語、日本語、中国語を駆使して、造船所とお客様の間に立って、修繕船のサポートを行った。その努力が認められ、某四国の船主から、年間数億円の契約を頂く。しかし、造船所での作業は、非常に危険で、船舶塗料は、毒性の高い化学製品も多く、毒マスクをつけての作業も多かった。健康を考えれば、この仕事を長く続けるものではないと思い、退社する。

 貿易の仕事がやって見たいと思い、上海の外高橋保税区にある物流倉庫会社に転職、日本人駐在員1名、中国ローカルスタッフ30名という現地法人に就職、就職した当初は、社内の経営、また、会社の風紀が、相当乱れており、建て直しを求められた。現地スタッフのやる気がなくなっており、規律もおかしくなっていた。日本式経営の基本は、「挨拶と掃除」だと思い、毎朝、一番早く出社して、すべての現地社員に挨拶し、そして、率先して、社内の掃除を行った。1,2ヶ月が過ぎ、社内に変化が見られた。会社全体に活気が生まれてきたのである。また、取引先との問題も多数あり、すべての取引先との損益分岐点を計算し、赤字決済になっている企業を全て廻り、値上げ交渉を行う。その結果、すべての取引先から値上げの了承を得て、半年後には、黒字営業にまで再生させたのである。突然、会社命令で福岡の本社に帰任するように辞令がでたことで、「私は、上海で仕事をしたいと思っている。」という理由で、辞令を断り、退社した。2003年の冬の出来事である。

 

【サラリーマン時代から独立起業への道】

 

 その後、数ヶ月、自分自身、中国で何をしたらいいのかを真剣に考える日々が続いた。自分で起業するにも、顧客の当てもない。一体どうしたら良いのかと日々悩んでいた。ある時、上海の自動車関連メーカーで勤めている駐在員の友人から、中国のローカル工場で、自動車メーカー向けの専用台車を製作して、日本の工場に納品して欲しいという話が来た。私は、チャンス到来と思い、中国人経営のローカル工場に話しをして、製品の製作依頼を行い、まずは、サンプルの製作をおこなった。日本に送った結果、問題ないということで、40FEETコンテナ単位での受注に成功した。その後、約1年、台車の発注が続き、何とか自分で起業することができた。しかし、このまま続けていても、ただ一社だけの取引会社だけであれば、万一、受注がなくなれば、会社は、維持できなくなる。開業当初2名のスタッフと私とで、3名で事業を開始した。事務所家賃とスタッフの給料、そして、私の給料と、当時は、さほど、多くの固定費を必要としなかったが、それでも、ただ、一社だけの取引先では、不安定で仕方がなった。2005年の春に転機が訪れる。「小泉首相の靖国神社参拝に関して、起こった反日デモである。」多くの日系企業が、中国から撤退を考えた時期に、私は、「ピンチがチャンス」と思い、日系の中国関連の有名ポータルサイトに全面広告を出すことにした。理由は、「この時期、日本企業は、中国での仕事をリスクと感じる。だから、中国で行う仕事を、アウトソーシングするはずだ。」と考えたからである。

 狙いは的中した。無名の会社であったが、この時期に、私自身、名前、顔写真を出した広告が功を成した。「こんな危ない時期に、そんな目立つことをやって大丈夫だろうか」と思ったが「私のやっていることは、悪いことでない。」という強い確信があった。中国の日本人社会で目立った存在になったのである。その後、弊社に対して、多くの企業から問い合わせが入るようになった。業務の主軸は、中国貿易のアウトソーシング業務、中国進出のサポート業務である。事業は、順調に拡大していき、社員数も10数名まで増えて事業を行った。売り上げも年間1億円を超えるようになった。

 丁度、そのころから、自分が行っている中国ビジネスをもっと、日本の多くの方に知ってもらおうと思う、毎週金曜日に、事務所の会議室で、中国ビジネスセミナーを開催するようになった。定員8名で行った小規模セミナーであったが、上海市内で起業する日本人経営者や、日本からわざわざ出張してくる経営者がいるくらいセミナーは、盛況であった。もっと効率よく、中国ビジネスを広めようと思い、インターネットのストリーミング技術をつかって、インターネット放送、動画での情報提供を始めた。その結果、メディア関係者からの取材が来るようになり、中国ビジネスの世界で、少し注目されるようになった。

 また、それがきっかけで、講演依頼も増え、大学、商工会議所、青年会議所、ジェトロ等で、講演することが増えていった。中国の最高学府 北京大学のEMBAで教鞭をとることになる。

 2005年から2012年までの7年間で数百回のセミナーを開催し、参加総数3000人以上、2000社以上の企業の方が、私が主催するセミナーに参加した。

 日本企業の中国進出を精力的に行い、100社以上の日本企業の中国進出を実現し、そして、そのことが認められ、中国の地方政府から、日本企業の誘致顧問として任命されるようになった。

 「日中のビジネスの架け橋をする」・・という思いが、中国である程度実現することができた。